凍える夜 ――聖母の神殿より |
名前を、呼ばれた気がした。
祭壇の上で祈っていたククルは、ふと顔をあげた。
振り返って周囲を見回す。
石の壁に囲まれた簡素な部屋は薄暗く、自分の影が燭台の炎に併せて静かに揺れる。あたりには深い静寂が立ち込めていて、耳が痛くなるほどだ。
誰も居ない。居るはずが無い。
分かっていたのに振り返ってしまった自分に苦笑いしながら、ククルは再び祈り始めた。
邪悪なるものから、世界を護れるように。
ククルが終始感じている存在がある。生命あるものを否定するような、あらゆるものを凌駕し飲み込むような、負の存在…闇の力。
その途方も無く巨大な力と相対するようになってから、どれくらい経つのだろう。世界の母たる者――聖母の能力を授かってから、どれくらいの季節を過ごしたろうか。
闇の力が本格的に目覚め始めたとき、その封印の地であったスメリアには大きな地殻変動が起こった。その結果、精霊山シオンのあるトウヴィル村は完全な陸の孤島になった。地殻変動と共に現れた太古の神殿で、ククルはひとり、その闇の力を封じ続けていた。それまで封印となっていた聖柩が奪われた今、闇の力を抑えられるのはククルの祈りだけだった。
ひとしきり祈った後、一息つくためにククルは祭壇の間を出た。大広間を抜け、神殿の入り口に向かう。反響するのは自分の歩く靴音だけだ。人気のない神殿は昼間でも寂しいものだが、夜中ともなれば一層と寂寥感が増す。
神殿の外に出ると、夜の闇に包まれた世界がククルを出迎えた。外灯も何もないが、白く雪に覆われた周囲がぼんやりと浮かび上がっている。
「さむ……」
冷え冷えとした外気に晒された身を震わせ、ククルは一歩踏み出した。さくり、と足元で雪を踏みしめる音がする。
「みんな、元気かな……」
溜め息の様に独白し、空を見上げた。夜空は一面に雲に覆われていたが、時折出来る切れ間から、少し欠けた月が顔を覗かせる。地面の雪が僅かな月光を反射して、周囲を薄明るくしていた。
低い位置を流れていく雲を眺めながら、今は遠く離れてしまった彼女の大切な人たちに想いを馳せた。
この空のどこかにいる、彼女の仲間たち。この空の下、この大地のどこかで、謂れない罪で世界中から追われながら、今も戦い続けている。
本当は、みんなと一緒に旅を続けたい。続けたかった。
それが許されないという事は、嫌になる程よく分かっている。闇の力が日々増大してる事は、祈りで抑えている自分が誰よりも痛感しているのだから。
それでも、渇望するように願ってしまうこの気持ちを止められない。
だって、貴方と一緒にいたいのよ。貴方の声を聞きたい。貴方の温もりを感じたい。
凍えるような夜気から身を守るように、ククルは自らの両肩を抱いた。
「寒いよ……」
呻くように呟いた、その刹那。
名前を、呼ばれた。呼んでくれた。
聞こえるはずもない遠い場所から、聞き違えるはずのない声で。彼は確かに、自分の名前を呼んでくれた。
「ごめんなさい、弱気になって」
小さく微笑んで、空を見上げた。相変らず、一面の曇り空。それでも、先刻よりも雲が薄くなったように見えるのは気のせいだろうか。凍えた身体に温もりが宿ったように感じるのは気のせいだろうか。
いいえ。気のせいなんかじゃない。
「……大丈夫。これが私の役目なのだから、挫けたりしない」
ククル・リル・ワイト。精霊山シオンを代々護り続ける一族、神官ワイト家の長女。
それが、生まれたときから自分に課せられている役目だった。その運命から逃れるために踏み出した一歩は、真に進むべき道に続いていた。
私の辿る道は、貴方の進む道。だから、どんなに離れていても。
「貴方の声が聞こえるわ」
白い息とともに、ククルの声は夜の闇に溶けた。
けれども、それは想い人に届いている。彼女が想うように、彼もまた自分を想い続けてくれているから。それは、確信にも似た思いだった。
夜明けはまだ遠く、凍える夜はなお続く。
それでも、この胸に宿る温もりは――。
間に合った…!お題締め切りギリギリです(ゴメンなさい)。前回投稿させていただいた「出逢い ―咎人の船より」と対になるように意識して書きました。今回はククル視点で挑戦。……あんまり対になってないかも(自爆)。
作者: 寿 駆麻
夜郎自大
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