逢瀬 |
――ここは何処だろう。
霧の中にひとり佇みながら、ククルはぼんやりと思った。
さっきまで神殿にいたはずだ。正確に言うならば、神殿の自室で眠っていたはずなのだ。それなのに、今は数メートル先も見えないくらい深い霧のなかにいる。手を伸ばしたら、指先に絡み付いてくるのではないかと思うほどにそれは濃い。
周囲の状況は全く把握出来ないが、不思議と嫌な雰囲気は感じなかった。まるでこの霧が自分を包んでいてくれるような、見えないものから守ってくれているような、そんな安心感すら覚える。
――音楽?これは……。
周囲を取り巻く霧と同じ様に、暖かで穏やかな旋律が、ククルの耳に届いてきた。その世にも美しい音色には聞き覚えがあった。
耳を傾けるものに等しく安らぎと癒しを与え、その余韻は大気に溶けて澱みさえ払う。この妙なる楽を奏でることのできる者を彼女は良く知っていたが、彼の音楽が今の自分に聞こえるはずがないこともまた良く知っていた。何故なら、彼は、いや彼らは、ここから遠く離れた場所にいるはずなのだから。
――…ポコの竪琴?まさか、そんな筈は…。
戸惑いながらも、ククルは足を一歩踏み出した。その途端、ククルを取り巻いていた霧が、まるで薄紙を剥がすように薄れていった。
歩を進めるうちに、辺りの様子が見て取れるようになってきた。薄い乳色の霞に紛れて、見慣れない木々が生えているのが分かる。見慣れないが、それらはいつだったか南の国を訪れたときに目にした草木に良く似ていた。季節ごとに温暖と寒冷を繰り返すスメリアには、生息するはずの無い植物ばかりだ。
――私、何でこんなトコロにいるのかしら。大体ココって何処よ?
相変らず続く竪琴の音を聞きながら、当然といえば当然な疑問が頭を掠める。
自分の顔の二倍はありそうな羊歯の葉の下をくぐったとき、不意に人影が目に入り、ククルは思わず歩みを止めた。
――ああ…、そうか。これ、夢なんだ。
少し離れた場所に、こちらに背を向けてひとりの少年が立っていた。
彼だ。彼がいる。
ピンと背筋を伸ばした立ち姿も、額から後頭部にかけて巻きつけたハチマキをきちんと結んでいるところも、見間違えるはずなどなかった。紛れも無く、あれは彼だ。
愛しさに、胸が詰まる。今すぐに駆け寄って、縋り付きたい。逢いたかったと、声が聞きたかったと、募る想いを伝えたい。
そう思えば思うほど、ククルの足は凍りついたように動かなかった。
夢。これは夢。
近寄ったら、きっと消えてしまう。文字通り、夢幻の如く彼は消えてしまうだろう。そして、ひとりきりの自分が残る。なんて哀しい夢。
――アーク。
声に出さず、心の中でその愛しい名を呼ぶ。物音のひとつでも立てたら、この夢が壊れてしまう気がした。
視線の先のアークは、不思議そうに辺りを見回している。
そして、振り返ってこちらを見た。その瞳が、驚きに見開かれる。
――アーク。
歓喜と、畏れ。相反する想いで、ククルもその瞳を見返す。ほんの数秒ののち、弾かれたようにアークが走り出した。
壊れてしまう、夢が。
恐怖に似た感情が、ククルを突き抜ける。しかしアークは、一片の迷いも無く駆け寄って来た。
自分に向かって、真っ直ぐに。
「ククル…ッ!」
少し息を弾ませなながら、アークが目の前に立った。
幻のように掻き消えは、しなかった。
「アーク……」
声が震えていた。アークが目の前にいる。真っ直ぐに自分を見て、名前を呼んでくれた。
夢。これは夢。なんて優しい夢。
「どうしてここにククルがいるんだ?俺は夢をみてるのか?」
顔にかかった飴色の髪を払いながら、アークが戸惑ったように尋ねてきた。
「そうね、夢なんでしょうね…」
記憶の中より高い位置にある顔を見上げ、ククルは微笑んだ。
アークの背って、こんなに高かったかしら。それに何だか大人びているみたい。
そう、すごく格好良くなっちゃってる。夢は見る者の望みや恐れを表すというけれど、この格好良いアークは私の願望なのかしら。
そんな自分が可笑しくて、思わず笑いが込み上げてきた。
「ククル?どうしたんだ?」
訝しげにアークが覗き込んできた。その少年らしい幼さが残る瞳は、彼女の良く知るアークのもので、嬉しくてますます笑みが零れる。
「ごめんなさい。だってなんだか貴方、すごく格好良くなっちゃってるんだもの」
素直に感想を述べると、何言ってるんだよ、とアークが顔を赤らめた。
「でも、ククルも結構感じが変わったよな」
アークは少し目を細めるようにして、改めてククルに向き直った。
「感じが変わった?どんなふうに?」
「え、あの、何ていうかさ、そのー……」
「なによ、ハッキリ言いなさいよ」
「ええと…。いや、やっぱりいいよ」
「ちょっと!言いかけて止めないでよ。気になるじゃない!」
急にしどろもどろになったアークに詰問すると、観念したように彼は口を開いた。
「その、すごく…。すごく綺麗なんだ。今の君、すごく綺麗で神秘的なんだ。俺が覚えているより、ずっと」
思いがけない告白に、今度はククルが顔を赤らめる番だった。
「…神秘的…なのは、この服のせいじゃない?ちょっと動きにくいけど、これ神官の服なのよ」
「うん、それもあるかもしれないけど。でもそれだけじゃないよ」
そう言うと、アークは黙ってククルを見つめた。その瞳に、何かに逡巡する色が見て取れる。
「アーク、どうしたの?」
ククルが問いかけると、逡巡する瞳のまま、伺うようにアー クがそっと尋ねた。
「…ククル。君に触れても、いいかな…?」
「…どうして、わざわざそんなこと聞くの」
「ごめん、触れた途端に居なくなるんじゃないかって思って。夢だから…、何も無かったみたいに消えてしまうじゃないかって、恐くて…」
躊躇いがちにアークが手を伸ばし、そっと頬に触れてきた。
暖かくて、骨張った大きな手の感触。この人の存在を、確かに感じる。
夢。これは夢。
夢でもいい。こうして、貴方に逢えたから。
頬に触れているアークの手に、ククルも自分の手を重ねる。
アークの感触と温もりが、頬と手の両方から伝わってくる。
覚えておこう。たとえこの逢瀬が夢でも、この感触は幻ではないと信じられるから。
「…ね、アーク。さっきから聞こえてるこの曲、ポコが弾いてるのよね?」
絶えることなく続く旋律に身を委ねるように、ククルはそっと目を閉じた。
「ああ。…そういえば初めて聞く曲だな」
「綺麗な曲ね…」
この目を開けたときが、きっとこの夢が醒めるとき。
だから、いつまでもこうしていたい。ずっとこうしていられたら、どんなに幸せだろう。
叶えられない、叶えてはいけない願いに浸りながら、閉じた自分の瞼の間から涙が零れていくのがわかった。
「ククル…」
アークの声に、気遣わしげな響きがこもる。
大丈夫よ。こうして貴方に逢えたんだもの。だから。
「貴方も、挫けたりしちゃ駄目よ」
そっと目を開く。夢から醒めていく視界の先に、頷くアークの姿を、ククルは確かに見た。
まず最初にアークの目に入ったのは、細々とした文字が羅列する紙だった。どうやら資料を読んでいる途中で眠ってしまったらしい。
甘い夢を見ていた。甘くて切ない夢だった。
その夢の世界から呼び戻されて最初に見たものが、キメラやモンスターや、更にそれを量産する施設についての資料なんだから泣けてくる。
仰向けに寝転んだ姿勢のまま、顔の上に乗っかる紙の束を退かす。視界いっぱいに緑が覆い、幾分か寝惚けた目に染みるようだった。
湿気を含んだ暑い空気が周囲に立ち込めている。木陰にいるとはいえ、気温はかなり高い。生い茂る草木の間に身を隠すように、銀色の飛行船が駐船しているのが見えた。機体の修理をしているのだろうか、チョンガラの召喚獣たちが船体の上や脇を右往左往している。
ここは南洋の小島、クラーフ島。原生種のヘモジーと、原始の生活を営む僅かな人間とが共存する、緑深い平和な国。それ故この島には、アーク達が潜伏するのに絶好の環境があった。
「霧なんて、出てなかったよなあ」
生い茂る木々の間から覗く青い空を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
「えー?アーク、何か言ったー?」
少し離れた木陰に、竪琴を抱えながら楽譜をめくっているポコの姿があった。いつの間にか、竪琴の音が消えていたことにアークは気が付いた。
「いや、何でもない。それよりポコ、さっきまで弾いてた曲だけどさ」
夢を見ていた。逢いたい人に、逢えた夢だった。
泣きたいくらいに聴きたかった声を、確かに聴いた夢だった。
「俺、初めて聞くような気するんだけど、何ていう曲なんだ?」
「ああ、この曲?クラーフ島のひとたちが歌ってた曲を、譜面に書き起こしてみたんだ。ちょっと僕なりのアレンジを加えてあるんだけどね〜。結構いい出来でしょ」
「へえ、この島に伝わるものなのか。綺麗な曲だよな」
「そうでしょ。何でも、元々はお呪いのための曲だったんだって」
「呪い?何の」
「えーとね、想う人のところまで、魂を飛ばすことができる…とか、そういう儀式に使われてた曲…らしいよ。詳しくは分かんないけど」
「想う人の…」
アークは半ば愕然とした思いで自分の手のひらを見返した。
この手に残る、頬の柔らかな感触。重ねられた白い手の温かさ。あれは幻じゃなかった。もう殆ど乾いてはいるけれど、うっすらと涙のすじも残っている。
夢を見ていた。遠い場所にいる恋しい人が、すぐそばに居た夢だった。狂おしいほど触れたいと思っていた、その願いが叶った夢だった。
夢であっても、幻ではなかったあの逢瀬。
それが、その古い曲に込められた願意が呼び起こされた為なのか、それともそれを奏でた楽士の類希な才によるものなのか、それとも自分と彼女の願いが起こした奇跡なのか、それは分からない。でも、理由なんてどれでもよかった。
貴方も挫けたりしちゃ駄目よ。
囁くような声もまだ、耳に残っている。
大切なのは、この手に触れた温もりが、確かにあったという事なのだ。
「ありがとう、ポコ。お陰でいい夢がみられた」
何のことなのか分からず、きょとんとした表情を浮かべる楽士に笑いかけ、アークは立ち上がった。
ああ、挫けてるヒマなんてないよ。
やらねばならない事は山積みなんだ。それに君に叱られるのは恐いからな。
涙を零しながら笑っていた、強くて愛しい人に想いを馳せながら、アークはシルバーノアに向かって歩きだした。
己の成すべきことを、成す為に。
お題締め切りギリギリ…というか、飛び込みでかろうじてセーフな投稿でスミマセン。
以前投稿したものと、内容は大して代わり映えがしない気もしますが(汗)、途中で視点が大幅に(ククル視点からアーク視点に)変わる、という一度やってみたかった禁断の(?)手法を思い切って使ってみました。
でもここでちょっとセルフつっ込み。いい加減、現実でふたりを逢わせてやってもいいじゃないか寿…。
作者: 寿 駆麻
夜郎自大
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